教育研究業績の一覧

脇坂 真弥
A 教育業績
教育実践上の主な業績 年月日概要
1 教育内容・方法の工夫(授業評価等を含む)
1 双方向の授業の工夫 2003-04-08 ~ 大人数授業でも個別の質問を受け入れ、学生の関心や教員の説明不足をフォローできるように、授業後に自由な質疑応答の時間を約10分設けた。その場で学生の質問に答えるだけではなく、説明不足が判明した箇所については次回授業で補足資料を作成して全員に説明を行う。優れた質問については個人的に応答のレポートを返し、質問者とのやり取りを資料にして授業の流れに盛り込む場合もある(下の「2.作成した教科書、教材、参考書」の欄を参照)。
2 個人研究室の開放・学生相談 2007-10-01 ~ 前任校で学生相談室の相談員になると同時に、オフィスアワー以外にも面談できるように、そのつど時間を決めて研究室を開放した。「倫理」の授業を担当し、生命倫理や具体的な人間関係の問題に授業で触れる機会が多いためか、臓器移植のレシピエントとなった学生や交友関係に問題を抱える学生、学習障害や将来の進路で悩む学生などが多く訪れ、教員として可能な範囲でその相談に乗ってきた。その後も、オフィスアワー以外での授業内容への質問応答、演習用レジュメの添削、レポートの確認(提出後のフィードバック)、卒論の添削等を続けている。
2 作成した教科書、教材、参考書
1 授業内容に関する質疑応答プリントの作成 2003-04-08 ~ 上記の「1.教育内容・方法の工夫」でも書いたように、優れた質問があった場合は公開して授業の流れの中に位置づけると共に、必ず詳細なレスポンスのプリントを作成している。学生のレベルはさまざまであるため、授業内に高度な内容を取り込むことには限界もある。しかし、このような質疑応答プリントの作成によって、より優れた学生の意欲を高め、授業に積極的に参加させることができた。
2 参考資料の作成 2003-04-08 ~ 授業では教科書は用いず、ほぼ毎回引用資料や「前回の補足プリント」を作成して教材として使用している。生命倫理、環境倫理などの授業では、現在話題となっている事柄をできるだけ多く授業内に取り込み、身近な事例から考えてもらえるように、インターネットなどからニュースを引用して資料を作成する。B4用紙1~2枚のかなり分量の多い資料だが、学生の理解力や進度に合わせて柔軟な授業を行うことができる。
3 教育方法・教育実践に関する発表、講演等
4 その他教育活動上特記すべき事項
1 国家公務員試験の問題解説(思想系)作成 2003-09-20
~2014-03-31
前任校(東京理科大学)において、国家公務員試験対策として、過去問題(思想系)の解説作成を毎年担当していた。
B 職務実績
1 人権センター員 2015-04-01
~2017-03-31
人権センターにおいて、学生の人権相談、また学生生活に関するさまざまな相談を受けた。
2 きょうのことば編集委員 2017-04-01 ~ 「きょうのことば」の編集委員として、年2回の文章作成を行っている。
3 学科主任 2018-04-01
~2019-03-31
哲学科主任として諸々の業務を行った。
C 学会等及び社会における主な活動
所属期間及び主な活動の期間 学会等及び社会における主な活動
1 1992-04-01~0000-00-00 宗教哲学会
2 1995-04-00~0000-00-00 日本宗教学会
3 1995-04-01~2004-03-31 日本シェリング協会
4 1999-04-01~0000-00-00 大谷大学哲学会(2004年4月1日~2014年3月31日までは退会)
5 2001-04-01~0000-00-00 宗教倫理学会
6 2006-04-01~0000-00-00 「依存症からの回復研究会」(アメリカのアルコホーリクス・アノニマス(AA)メンバーであるJoe McQ.が実践した『アルコホーリクス・アノニマス』の「12ステップ」のプレゼンテーションを伝え、依存症者の回復を手助けする研究会)に参加し、『ビッグブックのスポンサーシップ』『回復の「ステップ」』『RD12ステップガイドブック』『依存症から回復する12ステップガイド ドロップ ザ ロック』『セイン(健康な心:Sane) 精神疾患のある依存症者が回復するための12のステップ』などの翻訳に、メインのボランティアスタッフとして積極的に関わっている。
7 2007-04-01~0000-00-00 日本倫理学会
8 2011-04-01~0000-00-00 日本宗教学会 評議員
9 2014-04-01~2019-03-31 宗教哲学会 編集委員
10 2014-09-01~2016-03-31 宗教倫理学会 評議員
11 2017-04-01~0000-00-00 宗教哲学会 理事
12 2019-04-01~0000-00-00 宗教哲学会事務局
13 2019-09-15~0000-00-00 日本宗教学会 理事
14 2022-08-20~2022-08-21 西田幾多郎記念哲学館第42回夏期哲学講座 講師 研究会Ⅰ「人間の生の被贈与性」/研究会Ⅱ「創造的注意とは何か―シモーヌ・ヴェイユにおける「注意」の概念から」
D 研究活動
著書、学術論文等の名称単著、
共著の別
発行又は
発表の年月
発行所、発表雑誌等
又は
発表学会の名称
概要
Ⅰ著書
1 宗教の根源性と現代(第1巻)共著 2001-03-30晃洋書房 依存症からの回復の特徴は、「なぜ私が」という苦しみと「この病は賜物である」という自覚とがいずれに解消されることもなく一人の人間の内に保たれる点にある。そこには自力的な意志の破綻と、どこまでも異物として残る苦しみに根ざした新たな自己肯定が見られる。本稿ではベイトソンの思想を手掛りに、依存症からの回復がこうした「どうにもならないこの私こそ真の私である」という自分自身に対する宗教的とも言いうる自覚に支えられていることを明らかにする。
[総頁数 294頁]
[本人担当 210~225頁、第三部第二章「意志の破綻と自己肯定―アルコール依存症からの回復を手掛りにして―」、編者:長谷正當・細谷昌志、分担執筆者:杉村靖彦、岩田文昭、氣多雅子、神尾和寿、長谷正當、棚次正和、松田美佳、北野裕道、中村生雄、松本直樹、荒井優、脇坂真弥、宮永泉、松岡由香子、佐藤幸治、谷口静浩]
2 「いのちの思想」を掘り起こす―生命倫理の再生に向けて共著 2011-10-13岩波書店 本稿はウーマン・リブ運動の中心的存在だった田中美津の体験と思想から、彼女が自覚した「いのち」の意味を探る。この自覚は、私が私であることが根源的な偶然性に支配されていると知ることであり、このような知を他人は肩代わりできない。しかし他人もまたその人の偶然性を背負っているのであり、それに気づく瞬間、自他の現在を生み出している「いのち」への畏敬と、同じ「いのち」に支えられた他人との出会いを求める祈りが生じる。[総頁数 243頁]
[本人担当:59~104頁、第二章「田中美津論―「私という真実」を生きるということ―」、編者:安藤泰至、共著者:安藤泰至、脇坂真弥、佐藤純一、高草木光一、香川知晶]
3 セイン(健康な心:Sane)―精神疾患のある依存症者が回復するための12のステップ共訳 2018-10-10依存症からの回復研究会 依存症だけではなく、双極性障害や統合失調症などの重複障害をもつ当事者の回復の体験が書かれた本である。依存症者の12ステップグループの中で、ともすれば誤解されがちな人々の回復の助けとなる本として、実際に依存症者に関わるグループ(回復研)の人々が訳したものであり、その翻訳にボランティアメンバーとして参加した。[総頁数214頁]
4 人間の生のありえなさ――〈私〉という偶然をめぐる哲学単著 2021-04-30青土社
5 アーネスト・カーツ『恥と罪―アルコホーリクス・アノニマスの経験から学ぶ』共訳 2021-08-10依存症からの回復研究会 アルコール依存症の研究者として著名なErnest KurtzのShame and Guiltの翻訳。カーツは依存症の問題を人間が「神ではない(Not-God)」という事実から哲学的に考察する。有限でありながら無限なものに触れ、それを渇望せずにはいられない矛盾に満ちた人間の苦しみを、依存症者の「恥」の感覚を分析することによって解き明かしている。共訳とともに解説部分を執筆した。[総頁数107頁]
6 シェリング『学問論』共訳 2022-04-15岩波書店 第7講担当
以上6点
Ⅱ学術論文
1 カントにおける意志の自由と自然の問題―道徳論から宗教論へ―単著 1995-04-25『宗教哲学研究』第12号(京都宗教哲学会) 本稿では、カントの『実践理性批判』における意志の自律と『宗教論』における選択意志の自由の問題を比較することにより、カントの自由論の根底にある「自然」の問題を明らかにする。この「自然」概念は、カントが堅持しようとする自由(人間の自律的・理性的選択)の究極に、それを超える謎めいた働きが存在することを示唆している。[13頁(83~95頁)]
2 カントとシェリング
―人間的自由の問題を巡って―
単著 1996-06-10『理想』第657号「特集 シェリング・哲学と宗教」(理想社) 自由な行為の底には明晰な理性によっては割り切れない不可思議な剰余としての「自然」の働きがある。カントは悪をも為すような人間の自由をこの自然に関連させる。他方、シェリングはこの自然を人間の自己意識の暗い出自、人間の生命の根源として探究する。人間が感じる「生そのものの不安」はこの暗い自然に由来しており、人間における悪の問題の解決は、最終的にはこのような不安を鎮めることによってしか可能にならない。[11頁(79~89頁)]
3 シェリングにおける根底と無底―「根底」の二つの性質と「根底」の他者を巡って―単著 1996-07-20『シェリング年報』第4号(日本シェリング協会) 本稿では、『人間的自由の本質』においてシェリングが示唆する「根底(自然)」と「無底」との関係を手掛りとして、人間精神の暗い我性と悪の問題について論じた。シェリングによれば、常に「自分だけ」で存在したいと望む「根底(自然)」の高ぶりは人間の意志にそのまま引き継がれており、このような高ぶりはある絶対的な否定(無底)を受けることによって初めて鎮まり、再生する可能性があるとされている。[10頁(73~82頁)]
4 カントの自由論―二つの自由概念と自由の根拠を巡って―単著 1998-09-30『宗教研究』第317号(日本宗教学会) カントの思想には一貫して二つの自由概念が見られる。まず意志決定における知性的根拠の存在を通じて認識される自由がある。他方、このような意志自由の可能性の制約として想定される、絶対的に無制約な自由概念が存在する。本稿はカントの各時期の自由概念をこの二つの自由の関係に基づいて整理・考察する。その上で、後者の自由の無制約性がその必然的帰結としてもたらす自由の根拠の不可解さを明らかにする。
[24頁(27~50頁)]
5 人間的自由の深淵―カントの自由概念を中心にして
(博士論文)
単著 2000-01-00京都大学 カント哲学はつねに一貫して二つのタイプの自由概念を含む。一つは自律の意識(道徳法則の自覚)であり、もう一つはこの意識の可能根拠となる絶対的無制約性である。直接に把握できない後者の自由を、カントは前者の自由の意識から間接的に把握する。「為すべきであるがゆえに為し得る」とはこのような二つの自由の関係として読み解くことができる。しかし後者の自由は人間の自覚的意識の範囲を超えており、明瞭な自己意識(光)が生じると共に闇となって隠れる。カントの自由論は単純な厳格主義ではなく、倫理的善の源はこのような闇であり、善はその出自を通じて生の不安や悪の問題につながっている。[400字詰原稿用紙約250枚]
6 行為と法則単著 2000-03-28『哲學論集』第46号(大谷大学哲学会) 感性に左右されることなく理性の法則に基づいて行為することが「善」であるとするカントの主張はあまりにも厳格主義的だと批判される。しかし、人間の行為にはこのように純粋な、感性から完全に独立したと言いうる倫理的規範が、それを守れるか否かは別としてたしかに存在する。本稿はこの規範を行為の有意味性を支える基盤、人間のあらゆる行為に内在する基盤として捉え、悪の問題はこの規範の確立があってはじめて把握可能であることを明らかにする。
[12頁(44~55頁)]
7 自由と法則―カントの道徳論を手掛りにして―単著 2001-04-10『哲學研究』第571号(京都哲学会) カントは人間の自由をひとつの能力として、すなわち理性の事実たる道徳法則に人間が自律的に従う力として確立する。しかし、この自律が失敗し、法則に背いて自由を失う可能性もまたある。確実に自律し得るはずの理性がなぜ無能力に陥るのか。本稿は法則の生成と理性の生成とを表裏一体の出来事として捉え、理性の無能力をめぐるパラドックスを浮き彫りにする。さらに、このパラドックスが人間の自由に関する探究の限界をもたらしていることを考察する。
[26頁(81~106頁)]
8 セルフヘルプ・グループにおける「共感」の意味―アルコホリクス・アノニマスを手がかりにして―単著 2004-03-25『東京理科大学紀要(教養篇)』第36号(東京理科大学教養科) 本稿ではアルコール依存症者の自助グループ(AA)の共同設立者の間に見られる共感が、通常考えられるような「アル中同士の体験内容の一致」ではないことを明らかにする。Xの言葉がYに届いてYを変える時、両者は互いの体験の類似性を確認しているのではない。それはむしろYの体験が体験としてはじめて形をなし、Xに呼応してY自身の言葉が生成する瞬間である。この時、Yにはじめて「私はただの一人のアル中だ」という自覚が生まれ、それが依存症からの回復の入り口となる。[13頁(193~205頁)]
9 カントの動機論―倫理的意志決定の内実をめぐって(一)単著 2005-03-25『東京理科大学紀要(教養篇)』第37号(東京理科大学教養科) カントは「道徳法則の『意識』が道徳法則に従うための動機である」と主張する。法則を意識するということは、目の前にある石を石として認識することとは根本的に違う。それは法則が私に「直接に命令を下している」と意識すること、法則の威信を認知することである。本稿ではカントの動機論の分析を通じて、このような「法則の意識」の意味を明らかにする。
[13頁(181~193頁)]
10 カントの動機論―倫理的意志決定の内実をめぐって(二)単著 2007-03-20『東京理科大学紀要(教養篇)』第39号(東京理科大学教養科) (一)に引き続き、「法則に対する服従の意識」である「尊敬の感情」を考察する。理性に対して「感情」を軽視するとされがちなカントの道徳論の中で、唯一きわめて重要な道徳的感情とされるのが「尊敬の感情」である。自己の内部から「なすべし」と命じる道徳法則は、自己の「うぬぼれ」を挫く力をもつことによって「尊敬」の対象となる。本論文では、この仕組みをカント研究者であるリースの分析を手掛りに考察した。[17頁(99~115頁)]
11 表現としての飲酒―AA誕生時に見られる自覚の伝達を巡って単著 2008-03-31『宗教哲学研究』第25号(京都宗教哲学会) AA(アルコホーリクス・アノニマス:アルコール依存症者の代表的自助グループ)誕生の鍵となったのは、「自分が飲まずにいるために他のアル中を助ける」という「利己的態度」である。この利己性には積極的な意味がある。本論文では、アルコール依存症を、自分の有限性(「できない」ということ)を表現する際の歪みの病として理解し、「利己的態度」の遂行においてこの歪みがどのように解かれていくかを確認した。[17頁(54~70頁)]
12 シモーヌ・ヴェイユの工場体験単著 2009-10-30『宗教と倫理』第9号(宗教倫理学会) ヴェイユは工場労働で「人間が物になる」という非人間的状況を体験するが、周囲はそれをあくまでも普遍性のない個人的体験と捉え、彼女は自分自身にさえこの体験の意味をうまく表現することができずにいるように見える。これはなぜか。本稿ではヴェイユの論述の分析を通じて、非人間的状況に陥った当事者が尊厳喪失の共犯者となる仕組を明らかにする。さらに、この状況の中で彼女が見出したもう一つの「尊厳」を考察する。[16頁(3~18頁)]
13 シモーヌ・ヴェイユにおける人間の尊厳の問題単著 2013-03-20『東京理科大学紀要(教養篇)』第45号(東京理科大学教養科) 本稿ではヴェイユが工場労働を通じて失った尊厳と見出した尊厳を、その経緯を追って考察する。人間の自由はヴェイユが言う「盲目的メカニズム」によってあらかじめ形骸化されており、尊厳を失うか否かは当事者の努力を超えてある種の究極的な運に支配される。しかし、そのようにして尊厳が失われる時、人間に「物となって従順に生きる」という可能性が開かれる。ヴェイユはここに人間が人間である真の所以を、すなわち新しい尊厳を見る。[20頁(209~228頁)]
14 知覚・労働・科学――シモーヌ・ヴェイユ「デカルトにおける科学と知覚」から――単著 2013-09-30『宗教研究』377号(日本宗教学会) 本稿ではヴェイユの初期の科学論文を検討し、後の「盲目的メカニズム」としての世界観や神と人間の関係を読み解く準備とする。この論文で彼女は「力」を根源的現象とし、人間と事物を共に力の網の目に生じる結節点として捉える。しかし、同時に人間は想像力によってこの力を自覚的に用い(労働)、それによって自分を世界の一部として見出す。真の科学はこのような「知覚する労働」の延長線上にあると彼女は結論する。[28頁(155~182頁)]
15 神秘の喪失――シモーヌ・ヴェイユの科学論から単著 2014-03-31『宗教哲学研究』第31号(宗教哲学会) 数学が自然に適用できるということは解明されていない謎であるが、ヴェイユはそれを科学の根幹にある「神秘」として理解する。人間はこの神秘を謙虚に受け入れねばならない。だが、量子論に始まる現代科学はこの「神秘」を手放し、人間の有限性に胡坐をかくかのような太々しい怠惰を見せる。本論文では古典科学から現代科学への変化をめぐるヴェイユの考察を分析し、現代科学を「神秘の喪失」として批判する彼女の思想を明らかにした。[19頁(61~79頁)]
16 シモーヌ・ヴェイユにおける「無行為の行為」の概念単著 2017-02-28『哲學論集』第63号(大谷大学哲学会) ヴェイユは晩年、「神への従順以外にいかなる動機も意図もなく何かを為すなら、どのようなことでもしてよいということになるか」という問いに至る。暴力や殺人に関わるこの問いは、彼女にとって戦争に巻き込まれた人間の現実の行為をめぐる問いだった。本論文では、この問いを、善を求める人間の欲求と、その善の不在というヴェイユの思想と結びつけて位置づけることを試みた。[15頁(1~15頁)]
17 人間の生の《ありえなさ》―シモーヌ・ヴェイユの「不幸」の概念を手掛りにして―単著 2020-01-01『現代思想1 特集 現代思想の総展望2020』vol.48-1(青土社) 不幸への転落は根本的にある種の運(偶然性)と関わっている。その瞬間、人は「なぜ私なのだ」という不条理の中に置かれる。他方、その転落はやはり間違いなく「私のせい」でもある。本論文では、「人間の生は《ありえない impossible》。これを感じさせるのは不幸だけだ」というヴェイユの言葉を手掛りに、人間を翻弄するこの「不幸」の根源的な偶然性について論じた。[14頁(102~115頁)]
18 生命操作に抗して何が言えるか-サンデルの「生の被贈与性」と障害の問題を手掛りにして-単著 2020-02-28『哲學論集』第66号(大谷大学哲学会) 現代の科学技術を背景とした生命操作の問題を、サンデルは「生の被贈与性」という観点から批判する。本論文では、人間の生を偶然の賜物として見るサンデルの主張を、この世界そのものがもつ偶然的性質へと還元し、それを人間の身体をめぐる問題、とりわけ聾という障害と重ね合わせて論じた。[16頁(1~16頁)]
19 未遂の道徳――カントの道徳哲学と人間の自由の問題単著 2021-07-28『現代思想2021年8月号 特集=自由意志』vol49-9(青土社)
20 〈私〉を起こさないで―ディヴィッド・ベネターの「反出生主義」から 単著 2024-03-01『現代思想3月号 特集 人生の意味の哲学』(青土社) 本論の目的は、「生まれることは害であり、生まれてこないほうが良かった」とするベネターの「反出生主義」をその論理的矛盾を指摘したマグヌソンを補助線に読み解くことを通じて、ベネターの隠れた意図をある種の「入滅の思想」としてあぶり出すことである。同時に、この「入滅」は生れたことへの絶望や怒りではなく、「〈私〉のいないあるがままの世界」を見たいという、生を受けた人間の奥底にある切望である可能性を論じた。
以上20点
Ⅲ 口頭発表・その他
1 シェリングとカント―自由の問題をめぐって―口頭発表(一般発表) 1995-07-08日本シェリング協会第4回大会 カントが論じた人間の悪と自由の問題をさらに深く究明した哲学者としてシェリングを取り上げ、『人間的自由の本質』の論述を手掛りに、その思想をカントと比較考察した。カントが人間理性の奥底に見出した「自然」概念を、シェリングは世界と人間が生成する際のダイナミックな運動原理として捉えていることを示した。
[発表時間 30分]
2 カントの宗教哲学―道徳法則と幸福との関係を手掛りにして―口頭発表(一般発表) 1996-09-00日本宗教学会 
第55回学術大会
カントはその倫理学において幸福と道徳を相容れないものとして理解していると、しばしば論じられる。本発表では、幸福に関わるカントの諸概念の分析を通じて、このような従来の解釈とは逆に両者が結びつく可能性を考察すると同時に、両者の媒介が堕罪や悪の問題へと展開する可能性を示した。
[発表時間 20分]
[要旨掲載雑誌名 『宗教研究』311号(日本宗教学会)、1997年3月、2頁(69~70頁)]
3 カントの宗教哲学―超越論的自由と実践的自由の関係から―口頭発表(一般発表) 1997-09-00日本宗教学会 
第56回学術大会
行為の自由を論じるということは、人間を焦点にして世界全体を問う一つの方法である。本発表では『純粋理性批判』における超越論的自由と実践的自由の関係を取り上げ、超越論的自由の完全な無制約性が倫理的悪として世界に現れている可能性を示し、そこに見られる奇妙な世界の歪みを考察する。
[発表時間 20分]
[要旨掲載雑誌名 『宗教研究』315号(日本宗教学会)、1998年3月、2頁(137~138頁)]
4 書評『カント哲学とキリスト教』(氷見潔)書評 1997-12-00『宗教研究』314号(日本宗教学会) 本書はカントの『たんなる理性の限界内における宗教』の全体像を、原罪論、キリスト論、教会論、教会批判という観点から詳細に検討する。この検討をもとに、筆者は、カント哲学にとって歴史的現実(既存のキリスト教教義学)の批判的吟味は必須の課題であったこと、またその遂行過程に近代の理性的主体としての人間の「敬虔さ」の優れたモデルを見出すことができることを主張している。
[7頁(206~212頁)]
5 <私>の痛みの唯一性を巡って口頭発表(一般発表) 2001-11-11宗教倫理学会 
第2回学術大会
この世に私と同じ体験を持つ人間は一人として存在しない。しかし、人間同士の「共感」は事実存在しており、それは類似の体験を全く共有しない者の間ですら可能である。本発表は、このような共感の原理的可能性を、他者を「理解できない」ということを「理解し続ける」という倫理的あり方の中に探り、他者に生じている出来事の内容ではなく、その生起そのものに耳を傾ける姿勢として考察した。[発表時間 30分]
6 心理療法における共感と宗教口頭発表(一般発表) 2003-09-00日本宗教学会 
第62回学術大会
アルコール依存症者の自助グループであるAAは、劇的な「霊的体験」を経て断酒に成功したビルがもう一人の依存症者ボブと出会ったことから始まる。本発表ではこの出会いの核心を表現したボブの発言―「彼[ビル]は私の言葉を語った」―に着目し、そこにそれまでは存在しなかったボブ自身の「私の言葉」の生成を見る。この「私の言葉」こそが彼の自覚を形成し、回復への入り口となるのである。[発表時間 20分]
[要旨掲載雑誌名 『宗教研究』339号(日本宗教学会)、2004年3月、2頁(420~421頁)]
7 AAにおける「語り」と「癒し」
(テーマセッション「宗教と心理療法の相互内在性—宗教哲学的・思想史的視点から」)
口頭発表(テーマセッションのシンポジスト) 2005-06-12「宗教と社会」学会第13回学術大会 「当事者が語る」ということにはさまざまな形があるが、AAにおいては、アルコール依存症者がもう一人のアルコール依存症者に対して語るという形が基本である。このような当事者同士の対話がなぜ依存症からの回復につながるのかを、AA共同創設者の一人であるビルの「言行一致」に着目しながら考察する。[発表時間 20分]
8 語ること/聞くこと―AAにおける「癒し」の形
(第9部会パネル:問題のわかちあいから生み出されるもの—小集団の宗教性の研究)
口頭発表(パネリスト) 2005-09-11日本宗教学会 
第64回学術大会
AA成立に関わる出来事を手掛りに、共苦や共同体成立の基本にある「言葉が通じ合う」ということの意味、言葉が通じ合う時、要するにそこで何が理解されているのか、さらにはAAにおいてなぜ「霊性」という宗教的な言葉が用いられる必要があるのかを明らかにする。[発表時間 20分]
9 ヴェイユとカント口頭発表(一般発表) 2007-09-00日本宗教学会 
第66回学術大会
カントの「道徳法則による直接の意志規定」、「法則への自由な服従」、「法則への純粋な関心」を、ヴェイユの「注意」、「同意」、「絶対善への欲求」と比較し、そこに興味深い対応関係があることを明らかにする。
[発表時間 20分]
[要旨掲載雑誌名 『宗教研究』355号(日本宗教学会)、2008年3月、3頁(193~195頁)]
10 シモーヌ・ヴェイユの宗教哲学口頭発表(一般発表) 2008-09-00日本宗教学会 
第67回学術大会
ヴェイユの人格概念と「善への欲望」を取り上げ、この欲望への応答の可能性が、苦しみに意味を与える通常の応答とはまったく異なるものであることを考察する。
[発表時間 20分]
[要旨掲載雑誌名 『宗教研究』第359号(日本宗教学会)、2009年3月、3頁(110~112頁)]
11 シモーヌ・ヴェイユの工場体験口頭発表(一般発表) 2009-09-00日本宗教学会 
第68回学術大会
ヴェイユが工場労働で経験した「人間が物になる」という状況を、彼女が繰り返し言及する「2つの尊厳」という観点から考察する。
[発表時間 20分]
[要旨掲載雑誌名 『宗教研究』363号(日本宗教学会)、2010年3月、2頁(250~251頁)]
12 「私という真実」を生きる―田中美津の「とり乱し」論
(大会企画シンポジウム:「日本におけるバイオエシカルな思想――「バイオエシックス」前史から未来へ)
口頭発表(シンポジスト) 2009-11-14日本生命倫理学会
第21回年次大会
田中美津はリブ運動の中心であった時代から鍼灸師となった現在に至るまで繰り返し「自分以外の何者でもない者」として「私という真実」を生きると語っている。しかし、それは単純な自己肯定ではない。彼女が言う「私という真実」は、自分がある偶然の歴史を背負った人間としてすでにこのように存在してしまっているという事実を指している。「とり乱し」とは、この事実に出会った驚きを言うのである。
[発表時間 20分]
13 宗教学事典共著 2010-10-19丸善出版 狂気をめぐる複雑な歴史は、狂気がすぐれて関係的に成立する概念であることを示している。近代以降、狂気は正しい精神からの逸脱(異常)として「精神の医療」の対象となった。そして現代、狂気の概念は従来の精神的疾病の枠を超えて「正常」な人間の不安や苦しみにまで拡散している。かつて宗教や哲学が扱っていた人間の不安や苦しみが医学的治療対象になりつつある現代の状況は、宗教と「精神の医療」の双方に混乱と課題を突きつけている。 [総頁数 760頁]
[本人担当 426~427頁、担当項目 「狂気」、編者:星野英紀、池上良正、氣多雅子、島薗進、鶴岡賀雄 (分担執筆者は非常に多人数のため記入を省略した)]
14 シモーヌ・ヴェイユにおける「動機」の問題口頭発表(一般発表) 2012-03-24宗教哲学会 
第4回学術大会
ヴェイユは自らの工場体験に基づき、「奴隷状態に陥ることはあらゆる人間に起こりうる」と主張する。彼女がこのように考える理由は何か。本発表ではヴェイユが体験した「尊厳の喪失」を、カントが論じた「自由な動機選択」という観点からくわしく考察する。
[発表時間 30分]
[要旨掲載雑誌名 『宗教哲学研究』30号(宗教哲学会)、2013年3月、2頁(123~124頁)]
15 宗教的「いのち」観の危機と課題(第2部会パネル)口頭発表(コメンテーター) 2012-09-08日本宗教学会 
第71回学術大会
これまで人間に自らの傲慢を自覚させ、生命の根源への回帰を促していた「人間の有限性」が、科学技術の発展と共に現在非常に不気味な形で消えつつあるように思われる。私たちがこれまでとは違う「いのち」の危機を感じる背景にはそのような漠然とした不安があるのではないか。「死生の文化の危機」がどこで、どのような仕方で生じているのかを、予断を持たずにもう一度はっきりと見極める必要がある。
[発表時間 15分]
[要旨掲載雑誌名 『宗教研究』375号(日本宗教学会)、2013年3月、7頁(91~97頁)]
16 なぜ<私>なのか—カントからヴェイユへ口頭発表 2014-06-05大谷大学西洋哲学・倫理学会
春季公開講演会
カント、アルコール依存症の自助グループ(アルコホーリクス・アノニマス)、田中美津、シモーヌ・ヴェイユといった一見まったく異なる思想家やグループに通底する問題意識を、「なぜ私なのか」「なぜ私だけが苦しむのか」という観点から掘り起こし、考察する。
[発表時間 1時間]
17 シモーヌ・ヴェイユの科学論口頭発表(一般発表) 2014-09-13日本宗教学会
第73回学術大会
ヴェイユの思想は世界と人間のあり方すべてを包括する「全体」を希求している。本発表では、その一例として「外周円を決して越え出ない直角三角形の忠実さ」と「不正行為を控える人間の忠実さ」との類比関係を取り上げ、人間の悪の問題を彼女がどのように捉えていたかを明らかにする。
[発表時間 20分]
[要旨掲載雑誌名 『宗教研究』88巻別冊(日本宗教学会)、2015年3月、2頁(221~222頁)]
18 シモーヌ・ヴェイユにおける「無行為の行為」の概念口頭発表(一般発表) 2016-09-11日本宗教学会
第75回学術大会
ヴェイユが晩年に展開した「無行為の行為」という概念を、我意(je)の破壊に同意した人間の行為という観点から考察する。
[発表時間 20分]
[要旨掲載雑誌名 『宗教研究』90巻別冊(日本宗教学会)、2017年3月、2頁(199~200頁)]
19 《私》という偶然をめぐって口頭発表 2017-05-22大谷学会 
春季講演会
私がこの《私》であることの根幹は、じつは「たまたま」でしかないのではないか。この偶然はいわば究極の「格差」であり、あらゆる苦しみと残酷の源であると同時に、何か途方もない豊穣の源でもあるように思える。この発表では、この偶然が何をもたらすかとともに、この偶然を共有するとはどういうことかを軸に考察を行う。
[発表時間 1時間]
20 シモーヌ・ヴェイユにおける「無行為の行為」の概念
口頭発表 2017-06-01大谷大学哲学会
春季研究会
あらゆる私的な動機から離れて(=神に真に従って)行為するならば、人間は「どのようなことでもしてよいということになるか」。ヴェイユは晩年、このように自問している。本発表では、この問いをめぐって彼女の「無行為の行為」という概念を考察する。
[発表時間 1時間]
21 シモーヌ・ヴェイユにおける「無行為の行為」の概念
口頭発表 2017-06-25第11回大阪市立大学哲学研究会 ヴェイユの「無行為の行為」は、カント倫理学における「動機の純粋性(無内容性)」とも重なる興味深い概念である。また、私たちは通常の道徳においてもしばしば「無私」「私(心)のなさ」ということを語る。本発表ではヴェイユという思想家の紹介も兼ねつつ、彼女が晩年に展開したこの概念について、善悪との関係から考察を行う。
[発表時間 2時間]
22 シモーヌ・ヴェイユの宗教哲学―「注意」の概念を手掛りにして―口頭発表(一般発表) 2017-09-16日本宗教学会
第76回学術大会
「意志」を肯定するアランの哲学に対して、その弟子であるヴェイユは人間の根本的な無力を自覚し、じっと見つめて待つ「注意」の能力に注目する。本発表では、ヴェイユの「注意」の概念の中でも、「知的な注意」というレベルに関して考察する。
[発表時間 20分]
[要旨掲載雑誌名『宗教研究』91巻別冊(日本宗教学会)、2018年3月、2頁(196~197頁)]
23 《私》という偶然をめぐって(2017年度 春季公開講演会講演録)単著 2017-11-20大谷学報 第97巻 第1号(大谷学会) 「Ⅲ 口頭発表・その他」の19を元に、私がこの《私》である偶然を、他人には決して代わることのできない私の尊厳の核心として明らかにする。さらに、このような決して共有できない《私》を背負いつつも、分断されることなく私たちが《共に》生きる可能性について考察する。
[23頁(49~71頁)]
24 「人間の尊厳」という概念について―最近の研究動向と今後の展望口頭発表 2019-03-04大谷大学哲学会
春季研究会
本発表では、まず「人間の尊厳」概念が注目されている現状(この概念の多様化やそれに伴う問題点等)を確認し、これまで哲学においてこの概念がどのように捉えられてきたかを概観した。その上で、尊厳に関する新たな視点として、R.Stoeckerによって提示された「尊厳の社会的コンセプト」と、M.Sandeの「生の被贈与性の承認」という主張を確認した。最後に、「聾者」と聞こえる者との間にある根源的な不均衡をひとつの例としつつ、「人間の尊厳」をめぐる根本的問題を浮き彫りにすることを試みた。
[発表時間40分]
25 生命操作に抗して何が言えるか-「生の被贈与性」を手掛りに-
(第2部会パネル:生命操作時代の宗教と宗教学-宗教的生命観を鍛え直す)
口頭発表(パネリスト) 2019-09-15日本宗教学会
第78回学術大会
本発表では、遺伝子操作によるエンハンスメントに対してマイケル・サンデルが提示する「生の被贈与性(giftedness of life)」「生の偶然性」の概念を、そこに含まれる「自然の道徳的地位」を手掛りに論じた。道徳的な価値の傾きを含む「自然」概念は障害の問題と深く関わっており、そこで掴まれる「生の偶然性」は「この世界ではない別の世界」を垣間見せるある種宗教的な働きを示すことを指摘した。[発表時間20分]
26 『現代フランス哲学入門』共著 2020-07-20ミネルヴァ書房 本人担当第Ⅱ部「ヴェイユ」の章。彼女の思想は、「不幸」の認識によって「純粋な《善》の不在」という深い支点を得た。その結果、一見つぎはぎ細工のように見えた多彩な思想はひとつの「体系」を目指して再統合されていく。[総頁数408頁][本人担当172頁~173頁(2頁)][編著:川口茂雄、越門勝彦、三宅岳史、共著者多数のため記載を省略した]
27 シモーヌ・ヴェイユにおける宗教哲学の可能性 口頭発表(パネリスト) 2023-09-002023年度日本宗教学会 第82回学術大会パネル「現代世界における宗教哲学の可能性」
知性は世界を必然性として知解するが、顕わになった必然性は「この必然とは何か」とさらに冪を上げて知性に迫る。この時、必然性は知解可能なまま、より高い次元では全く知解不可能なものとなる。その極限は「不幸」の非現実感である。ヴェイユは、不幸の只中で知性が「見よう」と欲し続けるなら、人はそこに「神の愛」を見ると言う。それは欲求と所有の不可能な一致であり、ヴェイユにおける哲学と宗教の結び目はここにある。
以上27点

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